
今日からBKCでは新学期の聖研がスタート。今年も学内で聖書を読むことができるんだと思うと自然とにやけてしまう僕がいる。聖書を読めることは特別なことだし、仲間と一緒に聖書を読めるのはもっと特別なこと。そしてとってもうれしいことなんだ。また今年も聖書を開くことがゆるされている。感謝です。
今日開いた箇所はヨハネ2:1~11。カナの婚礼の箇所。イエスが水をぶどう酒に変える、初めての奇跡を行ったところ。この箇所を開きどう感じる?2000年も前の出来事だし、僕たちがまだ経験していない結婚式のはなしだし、奇跡についての記事だし、なかなか理解することは難しい箇所かもしれない。(事実、僕は事前に読んだけど、この箇所は何を言おうとしているのか、ちょっと分からなかった。)
「ぶどう酒がありません。」と言った母の気持ちはイエスなら何とかしてくれる、神のみ子を信頼してのことばだ、と言う発言が出た。母はイエスの誕生からそれまでの人生を見て、彼を神のみ子と絶対的に信頼していた。はたしてクリスチャンの僕はイエスを信頼しているだろうか。絶対的な信頼でイエスと付き合っているだろうかと問われたような気がした。僕はイエスにちゃんと「ぶどう酒がありません。」と言えるのかなあ。
僕は中学生までは自分はわりといい人間だと思っていた。しっかり生きていけばいいおとなになれると思っていた。けれども、高校受験を前にしたころ、自分の中ある、愛がないという罪に気がついた。どうしても愛することのできない人に出会ってしまったとき、自分はよい人間ではないのだと思い知らされ、自分中心の生き方しかできていないと気づかされた。これは僕にとってショッキングな事実で、控えめに言ってものすごく落ち込んだ。だけどそんな汚い自分のためにイエスは十字架にかかって死んだのだったと思い出すことができた。そのとき初めてイエスの十字架を自分のものとして受け入れることができた。
イエスは僕のきよくなりたい、よく生きたい、と言う必要を満たしてくれる人だった。ぶどう酒は血のたとえとしてしばしば聖書の中に出てくる。そしてイエスの血はすべての罪をきよめる。
あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖いだされたのは、
銀や金のような朽ちるものにはよらず、
傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、
尊い血によったのです。(Ⅰペテロ1:18,19)
中学生のころは切羽詰っていたから「ぶどう酒がありません。」と言えたけど、今はどうかな?そもそも自分にイエスの血であるぶどう酒が必要なんだと思っているのかな?今日の聖研はそんなことを気づかせてくれた。ちゃんと素直に「ぶどう酒がありません。」と言わなきゃな。
今日の出席者 がんちゃん(俊介とは言わない)、なっちゃん、ゆりちゃん、ミスター、聖くん(写真撮れなくてごめんよ)、僕
BKC よーこー