2009/06/19

BKC聖研

6/18、19。今週も楽しいヨハネ聖研。ひとりの盲人の目がみえるようになる箇所から、「神のわざ」が私たちに現れるとはどういうことか、まったりとだけどじっくりと学びました。
この男が盲人に生まれたのは、この人の罪のためではなく、この両親の罪のためでもなかった。ただ神のわざが現れるためだと、イエスは説明した。私たちは目は見えるかも知れないが、私たちが生きているのは、神のわざが現れるためだけなのかも知れない。聖研の中で、この男は神のわざが現されるためだけの、神の駒ではないか、という話になった。そうかも知れない。だけど、全知全能の父なる神なら、そんな駒を使わなくても、ご自身の栄光を現す方法はいくらでもあっただろう。それなのに、この男を通して神のわざをあわらしたのは、神が私たちを愛して、一緒に生きていきたいからなのだと、僕は思う。人間の生きる目的はなんだろうか。思春期の高校生のようにそんなことも考えてしまう。

よーこー

2009/06/17

BKC聖研

6/11、12もつづけてヨハネの福音書を開き、みんなで聖書を学びました。開いたのはヨハネ8:31〜59。先週、イエスの教えに多くのものが信じた、と学んだのだけど、彼らにイエスは続けて話された。ユダヤ人たちが固執していた、我らはアブラハムの子孫、と言う伝統やプライド。彼らは真理を知ろうとはしなかった。ニコデモのところでも学んだけれど、ひとは古い自分を捨てて新しく生まれなくちゃ救われることはない。伝統もプライドもよいものだけど、救いをじゃまするのなら捨てなきゃいけない!僕らはキリストを信じて受け入れることができるだろうか?それを邪魔しているものはないだろうか?

広坂洋行

2009/06/05

BKC聖研

 更新が滞っていましたが、途中インフルエンザの影響で一回飛びましたが、ちゃんと聖研はしてました。では2009年6月4,5日の聖研の報告です。

 この週はヨハネ8:12~30から「あなたは誰ですか?」というタイトルで聖研をしました。毎回、このヨハネの聖研は内容が深くて難しいので、うなりながら聖研している。けれども、イエスの発言を注意深く読んでいくと、大きな発見があり、うなり声がやがて嘆息に変わる。聖研の楽しさを実感する瞬間。
 二日間同じ聖研を異なる参加者でしたけれど、それぞれで突っ込み方や受け取り方が見事に違うので面白い。4日はなぜ人々がイエスを信じることができたのかについて突込みが入り、5日にはイエスが唐突に語る「罪の中で死ぬ」という言葉に突込みが入った。「私は世の光です」と語ったイエス。果たしてこの方は誰なのだろうか。うなりながら、そしてため息をつきながら、その深さに沈み込んでいた。

 まとまりがありませんが、続きの箇所をまた読んでいきます。聖研の時間と場所が守られますように。
よーこー